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二宮尊徳

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二宮 尊徳
読み にのみや そんとく(たかのり)
生年月日 天明7年7月23日(1787年9月4日)
没年月日 安政3年10月20日(1856年11月17日)
出身 相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市)
職業 農政家・思想家
主な業績 報徳仕法による農村復興

二宮 尊徳(にのみや そんとく)は、江戸後期の農政家・思想家。通称金次郎。没落した生家を再興したのち、小田原藩・下野桜町領などで「報徳仕法」と呼ばれる農村復興を指導し、600以上の村を立て直したとされる。

生涯

少年期に父母を失い、伯父の家で働きながら学んだ。生家を再興した後、小田原藩家老服部家の財政再建に成功し、文政5年(1822年)から桜町領(栃木県真岡市)の復興にあたった。晩年は幕府に登用され、日光神領の仕法中に没した。「至誠・勤労・分度・推譲」を説く思想は、弟子の富田高慶らによって報徳社運動として広まった。[1]

近代の顕彰

明治37年(1904年)の第1期国定修身教科書に「勤勉」「孝行」の模範として登場し、以後すべての国定修身書に取り上げられた。薪を背負って本を読む少年像は大正末から昭和初期に全国の小学校に建てられ、その数は数千に及んだ。戦時中は金属供出で多くが失われた。[2]

占領期以降の記述との違い

占領期以前の記述・扱い 占領期以降の記述・扱い
修身教育の代表的人物として、勤勉・孝行・報恩の模範とされた。 修身の廃止とともに教科書から消え、銅像は「軍国主義教育の象徴」として撤去される例もあった。近年は農村経営・環境思想の先駆者として再評価されている。

出典

  1. 富田高慶『報徳記』1856年成立。
  2. 岩井茂樹『日本人はなぜ二宮尊徳を忘れたのか』文春新書、2011年。

関連項目