楠木正成
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| 楠木 正成 | |
|---|---|
| 読み | くすのき まさしげ |
| 生年月日 | 永仁2年(1294年)頃 |
| 没年月日 | 延元元年/建武3年5月25日(1336年7月4日) |
| 出身 | 河内国(現在の大阪府南河内) |
| 職業 | 武将 |
| 主な業績 | 千早城の戦い、建武の新政への貢献、湊川の戦い |
楠木 正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉末期から南北朝期の武将。後醍醐天皇に応じて挙兵し、赤坂城・千早城で鎌倉幕府軍を引きつけて倒幕に貢献した。建武の新政の後、足利尊氏との湊川の戦いに敗れ、弟正季とともに自刃した。
生涯
元弘元年(1331年)、後醍醐天皇の挙兵に応じて河内の赤坂城で挙兵。翌々年の千早城の籠城戦で幕府の大軍を釘付けにし、その間に各地で反幕府の動きが広がって鎌倉幕府は滅亡した。建武の新政では記録所・雑訴決断所などに任じられた。建武3年(1336年)、九州から東上する足利尊氏を迎え撃つよう命じられ、湊川で敗死した。『太平記』は死に際して弟と「七生まで人間に生まれて朝敵を滅ぼさん」と誓ったと記す。[1]
近代の顕彰
江戸時代から『大日本史』などで忠臣とされ、明治5年(1872年)に湊川神社が創建、明治13年(1880年)に正一位を追贈された。明治33年(1900年)には皇居前広場に銅像が建てられた。修身・国史教科書では「忠君の鑑」として最も重要な人物の一人であり、「七生報国」の語は昭和期に広く用いられた。[2]
占領期以降の記述との違い
| 占領期以前の記述・扱い | 占領期以降の記述・扱い |
|---|---|
| 「大楠公」と呼ばれ、忠義の象徴として修身・国史で必ず教えられた。 | 「忠君愛国教育の題材」として敬遠され、教科書では南北朝の一武将として簡単に触れられるにとどまる。軍事的才能や河内の在地領主としての実像は、戦後の実証研究で明らかにされてきた。 |